2022.03.20
【作家紹介】② 棟方志功 ~ワだば、ゴッホになる!~板に宿る命に魅せられて
目次
棟方志功をご存じですか?
20世紀を代表する、日本が誇る世界的に有名な芸術家です。
油絵のほか、主に板画(版画)の作品を多く制作し【 木版画の巨匠 】と呼ばれました。
今回は棟方志功について、その生涯と作風や作品をご紹介します。
※板画…1942年(39歳)頃から、自分の木版画を「板画」と称し始めた。
棟方志功の生涯
生い立ち
1903(明治36年)年9月5日、青森市で鍛冶屋を営む刀鍛冶職人・棟方幸吉と妻さだの間に15人兄弟の6番目として、その生を受けました。
幼いころ囲炉裏の煤で眼を患い、それが原因で重度の近視になってしまいますが、そのころから志功は絵が上手だったと言われています。
小学校を卒業した志功は、すぐに家業の鍛冶屋で働き始めなければならず、残念ながら中学には行けませんでした。
しかし17歳の時、母を病気で亡くし父が鍛冶屋を廃業。
そのため志功は家計を支えるべく、青森地方裁判所の弁護士控所で給仕として働き始めました。
ワだば、ゴッホになる!
この頃から、志功は精力的に絵を描くようになります。
仕事の空き時間や退勤後に公園で写生を続け、独学で絵画を学びました。描き終えると、決まって風景に対して合掌していたそうです。
酷い近眼と自らの中に高まってくる絵画への情熱。そこには「無事描けたことへの感謝」があったのかもしれませんね。
18歳の時、青森市在住の友人で洋画家の小野忠明に、文芸雑誌「白樺」に掲載されたゴッホの「ひまわり」の原色版を見せてもらった志功。
まるで黄色の炎で花びらを燃やすかのような、ヒマワリの生命力と存在感に圧倒された志功は強い衝撃とともに深く感動します。
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棟方は友人宅を帰る時に呼び止められた。
「ゴッホさ、ガ(君)にける(あげる)」
友人は棟方に白樺をプレゼントした。棟方の指がスッポンの口ばしの様に談笑中ずっと白樺を手放さなかったことに気付いたからだ。
「ワ(我)のゴッホさ、ガ(君)にける」
と繰り返して言うと、棟方は狂喜して踊り上がった。
「ゴッホさ、ワに?ゴッホさ、ワに?」
棟方がこの恩寵が信じきれないという顔をしていると、
「ンだ。ガにける」
贈呈の意志が変わらないことを、友は3度重ねて表明した。
棟方は白樺を胸に抱きしめ、歓喜の笑みで
「ワだば、ゴッホになる!ワだば、ゴッホになる!」
と友人の好意に応える覚悟で叫んだ。
その後、友の気持ちが変わらぬうちにと、そそくさと帰ったという。
※詩人・小高根二郎『棟方志功』より引用
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志功の運命が大きく方向を変えた瞬間でした。
上京、絵の勉強に精力を注ぐ
1924(大正13)年、21歳の時に「帝展(現在の日展)に入選しなければ帰らない」と一大決心し、絵の勉強に打ち込む志功。
何度も帝展に落選してしまいますが、上京して5年目の1928(昭和3)年、第9 回帝展に油絵【雑園】という作品で念願の入選を果たします。
5回目のチャレンジでやっと手にした、輝かしい前進でした。
木版画へ転向
【雑園】が帝展に入選するのと時を同じくして、志功の中に油絵に対して疑問が生まれ始めます。
「西洋由来の油絵では、西洋人より抜きん出た作品を残すのは難しいのではないか?日本人だからこそできる作品を作りたい」
と考えたのです。
昭和2年、23歳の志功は、版画家の川上澄生(すみお/1895-1972、当時31歳)が、初夏の恋の幻想を描いた木版画の代表作『初夏の風』を国画会に出品。それを見た志功はすっかり心を奪われます。
そしてやがて、江戸時代から途絶えることなく志向の憧れでるゴッホも高く評価した浮世絵、つまり木版画へと繋がっていきます。
志功は初めての木版画【中野眺鏡堂窓景】という、ハガキ大の3色摺り風景版画を制作。
画家仲間や家族は有名画家に弟子入りすることを勧めますが、志功はこれに抵抗。これについて、後に自伝でこう残しています。
『師匠についたら、師匠以上のものを作れぬ。ゴッホも我流だった。師匠には絶対つくわけにはいかない!』
『日本から生れた仕事がしたい。わたくしは、わたくしで始まる世界を持ちたいものだと、生意気に考えました』
それでも翌年、のちに「木版画の神様」と讃えられる平塚運一(うんいち)に師事して木版を学び、制作に没頭していきます。
第6回春陽展に版画を7点出展し、そのうち3点が入選するなど自信を深めた志功は、油彩画から木版画に転向することを決意したのでした。
結婚
1930(昭和5)年、文化学院で美術教師を務めていた棟方は、青森で「赤城チヤ」という女性と結婚、身を固めます。
しかし貧困だったため志功は東京で教師仲間との共同生活を強いられ、チヤ夫人は青森と離れ離れに。夫婦で一緒に暮らせるようになったのは結婚の翌々年になってからでした。のちにチヤ夫人との間に2男2女を授かります。
版画が認められる
結婚したのと同じ年、国画会の展覧会に「貴女・裳を引く」など4点の作品が入選。翌年には自身初の版画集【星座の花嫁】を出版するなど、精力的に活動します。
1932(昭和7)年には、第7回国画会展に出品した版画4点のうち、3点がボストン美術館に、残る1点がパリのリュクサンブール美術館に買い入れられました。
※裳を引く…女性が裳(着物やドレスの下半身にあたる部分)の裾(すそ)を長く引きずること。
柳宗悦と民芸の世界
そして1936(昭和11)年、第11回国画会展に『棟方版画の原型』となった【大和し美し(やまとしうるわし)版画巻】を出品。
ヤマトタケルノミコトの古代神話をモチーフにした、佐藤一英による壮麗な詩と、志功の土俗的で生命力にあふれる絵が融合し、7メートルという大きさ相まって壮大な作品となりました。
【大和し美し版画巻】は「身の回りにある普通のものに魅力を発見し、利用する」という民芸運動の第一人者である、柳宗悦(むねよし)や河井寛次郎らに注目され、交友が始まりました。
柳宗悦が新しく開館する日本民藝館の所蔵品として【大和し美し】を購入。上京から12年目にして、ついに志功の作品が国内で売れたのです。
柳宗悦との交友をきっかけに、志功は仏教や民芸の世界に心酔していき、作品も仏教を主題にしたものが増えます。
さらに技法についても、柳宗悦から影響を受けました。「裏彩色」という、紙の裏から色付けする志功の代表的技法も、実は柳宗悦の影響によるものなのです。
「世界のムナカタ」と呼ばれる
1938(昭和13)年、志功35歳の時に【善知鳥(うとう)版画巻】が帝展の版画では初めて特選に選ばれます。
この頃から第二次世界大戦の戦局が激しくなりますが、志功は疎開しながらも制作活動を継続します。
1939(昭和1年)には、興福寺の十大弟子から着想を得た【釈迦十大弟子】を下絵を描かずに一気に仕上げました。
1952(昭和27)年にスイスのルガノ国際版画展で日本人初の優秀賞を受賞。
1955(昭和30)年にはサンパウロ・ビエンナーレに【二菩薩釈迦十大弟子】を出品し、版画部門の最高賞を受賞。
翌1956年、ベネチア・ビエンナーレに【湧然する女者達々】【柳緑花紅頌(りゅうりょくかこうしょう)】などを出品、日本人初の国際版画大賞を受賞。
数々の受賞によって、棟方志功は「世界のムナカタ」として世界中に知られるようになります。
作品が国際的に評価されたことで、アメリカ各地で講演や個展を開催するなど活動の場が世界に広がった志功。
後にフランスを訪れ、念願であったゴッホのお墓参りも実現させるなど、充実した作家人生を歩んでいくのです。
失明と晩年
1960(昭和35)年、アメリカで代表作を中心とした大巡回展が開催され、好評を得ました。この頃に朝日文化賞を受賞するなど、ようやく日本の美術界で正当に評価されるようになりましたが、眼病が悪化し左目を視力を失います。
左目失明後も、志功は右目だけで作品を作り続け、1970(昭和45)年、67歳の時に文化勲章を受章。
絶え間なく湧き続け、けして揺るがない板画への情熱で文化勲章まで上り詰めたのです。
1975(昭和50)年9月13日、肝臓がんのため72歳で永眠。
故郷の青森にある棟方志功のお墓は、敬愛するゴッホのお墓と同じ形に作られました。
作風・代表作品
幼い頃から極度の近視だった志功の制作時の様子について逸話が残っています。
作品に顔をピッタリと近づけて、さらに軍艦マーチを口ずさみながら制作をしていたそう。
また青森出身ということもあり、ねぶた祭り好きが高じて作品の題材にしたり、跳人として実際に参加したというエピソードもあります。
ここからは、棟方志功の作風・作品をご紹介します。
「板画」へのこだわり
志功は39歳の時に出版した随筆集【板散華(はんさんげ)】の中で、
今後は「版画」ではなく「板画」と呼ぶ
と宣言。
板が持つ性質を大切にし、板の声に耳を傾け、板の命を彫り出すことを目的とした芸術を目指し、独創的な作品を数多く発表しました。
作品「柵」
【門世の柵(もんぜのさく)】【沢瀉妃の柵(おもだかひのさく)】など、志功の作品には「柵」という文字がつくものがあります。
これは単に「囲い」という意味ではなく、四国の巡礼者がお寺を巡る際に首に下げる廻札を意味しています。
自分の願いをかけてお札をお寺に納めて歩くということから「1つずつ、作品に願いをかけて置いていく」というお札のような意味が込められています。
大首絵の美人画
棟方志功の代表作である【美人大首絵】は、女性の胸から上の顔を大きく描き、女性の中に宿る仏性への礼賛を表現したとされています。
【くちなし妃の柵】【門世の柵】【弘仁の柵】【沢潟妃の柵】などは、ふっくらとした女性の顔に加えて季節の花や詩も描き込み、妖艶な雰囲気が見る人を強く惹きつけます。
二菩薩釈迦十大弟子
こちらも棟方志功の代表的な作品で、六曲一双屏風の構想で制作されました。
十大弟子とは釈迦の弟子の中で優れた10名のこと。
目鍵連、舎利弗、優婆離、須菩提、阿難陀、羅睺羅、魔訶迦葉、阿那律、富楼那、迦旃延
を指し、その両端に普賢延命菩薩と文殊止利菩薩が配されます。
下絵を描かずに一気に掘り進め、12枚をわずか1週間で仕上げたとされます。力強く生き生きと生命力にあふれた十大弟子が表現され見る者を囲い迫ってくるような迫力が見所です。
受賞
1952年 スイス ルガノ国際版画展 日本人初の優秀賞受賞
1955年 サンパウロ・ビエンナーレ 版画部門最高賞受賞
1956年 ヴェネツィア・ビエンナーレ 日本人初 国際版画大賞受賞
1969年 第11回毎日芸術賞受賞
1970年 文化勲章受章
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