2022.07.31
【作家紹介】③ 片岡球子 ~落選の神様と呼ばれて~ 貫いた信念とその力強い表現
目次
片岡球子。明治から平成の103年間を、絵画と共に駆け抜けた日本画家です。
今でこそ多くの人に愛され、名誉も揺るぎないように思える球子ですが、画家として花開くまで、その独特の作風は「ゲテモノ」と評され逆風を受けていた時代がありました。
見る者さえも飲み込んでしまいそうな力強い筆運びと色彩は、どのようにして生み出されたのでしょうか?
今回は片岡球子の生涯と、人々を惹きつけてやまない魅力に迫ります。
片岡球子の生涯
晩年「日本三大女流画家」と称された球子。その長いキャリアの駆け出しは、決して華々しいものではありませんでした。
生い立ち
片岡球子。1905年(明治38年)1月5日、北海道札幌市生まれ。
球子の両親はもともと岡山県出身で、開拓民として北海道へ移住しました。
幼い頃から絵画に興味を持っていた球子ですが、第一次世界大戦後の影響や両親の意向から、当初は医者を目指していました。
しかし球子の本音を知る知人など、周囲からの勧めを受け、東京の女子美術専門学校(現・女子美術大学)を目指すことを決意。
しかし当時の画壇は男性社会。女性が簡単に入れる世界ではありません。当然ながら娘の将来を案じ反対する父。その父の反対を押し切り球子は入学を果たします。家出同然、故郷 北海道を飛び出したのです。
球子18歳。長い画家人生の第一歩を踏み出した瞬間でした。
女子美術専門学校に入学後、球子は帝展の日本画家である吉村忠夫に師事。日本画について手ほどきを受けます。
※帝展…「帝国美術院展覧会」の略称。文部省主催の文展が1919年に帝国美術院設立と共に移管。それ以降、帝展として ‘34年までに15回開催。新文展(’37〜44)日展(’46〜)として、今に受け継がれている。(出典:コトバンク)
高等科卒業後は小学校の教師へ
無事、女子美術専門学校を卒業した球子は、神奈川県の横浜市大岡尋常高等小学校(現・横浜市立大岡小学校)の教員として教鞭を取ります。
この当時「早く世間の評価を受けたい!」という思いが抑えられない球子は、なんと師匠の吉村忠夫に黙って、こっそり洋画家 富田温一郎(※)にデッサンを学びながら帝展に出品することを決めます。
※洋画家、日展審査員(1887 – 1954)代表作は「業」「静物を配せる裸婦」「八月の椽」「炉辺」など。
日中は熱心に生徒を指導し、夜はほどんど寝ずに制作する日々。
時には授業が終わった後、学校に泊まり込んでまで作業してなんとか出品に間に合わせることもありました。
この底から湧き出るようなタフなエネルギーに、後の力強い筆運びの原点を見るようです。
婚約破棄して両親に勘当される
夢である画家を目指し、一心不乱に猛進する球子。
その娘の頑張りを両親は良く思っていません。父は球子に婚約を整えます。悪い話ではなかったはずですが、最終的に球子はその婚約を破棄してしまいます。
一般的な安定や、当時女性の幸せとされていた「家庭」を持つことよりも、画家として絵画と添い遂げる決意を貫いたのです。
かねてより球子の画家という職業に反対していた両親はこれに激怒。とうとう実家から勘当されてしまいます。
それでもなお、夢を諦めず己を歩ませ続ける球子でした。
そんな苦境にありながらも創作活動を続けていましたが、帝展(現・日展)には3度続けて落選。さすがの球子もこれには堪えました。
球子の勤務する小学校の近くに住んでいた、中島清之(※)の勧めで院展に出品。
※大正-昭和時代の日本画家(1899-1989)「変転の画家」と呼ばれた。代表作は『雪の子(晴雪)』『喝采』など。
※院展…日本美術院が毎年9月に開催する展覧会の略称。明治末期には一度凋落したが1914年横山大観・下村観山らによって再興。日本画の中心となる。(出典:コトバンク)
当時球子を指導していた中島清之は、厳しくも想いのこもった激励を送りました。これに対し、球子は後に振り返ってこう残しています。
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思い直して中島清之先生(院展院友)のお宅へ戻り、落選を告げると、先生はいきなり
「落ちるからこそ、いい作家になれるんだ。その味を忘れちゃいかん」と、怒鳴るようにおっしゃって、こう続けられました。
「僕はある人に前々から言われてるんだ。『片岡は最後まで残るのに、 いつも最後の審査で落選している。あれじゃあんまりかわいそうだ。君についているそうだが、何とか激励してやれよ』と。しかし片岡さん、僕は考えるんだ。僕がもしも、君の絵に、僕の意見を言ったり、手を入れたとしたら、君はもう君独自の君流の絵は描けなくなる。君一人で絵は描けなくなるんだ。片岡球子の絵は、片岡球子の絵でなければならない」。
このお言葉は忘れることができません。
※出典:到知出版社「落ちるからこそ、いい作家になれる」——日本を代表する女流画家・片岡球子の言葉
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初入選そして破門
両親に勘当されながらも、画家という夢に向かい突き進み続けた球子。
1930年、24歳のとき日本美術院の院展に作品「枇杷」でついに入選を果たします。
ようやくその手につかんだ入選。しかしその一方で、日本美術院と対立(※)していた師匠の吉村忠夫に、隠れて院展へ出品していたことがバレてしまいます。
師匠に相談も無かったこと、洋画家に学んでいたこと、何より吉村忠夫属する帝展と敵対していた院展に出品していたことが逆鱗に触れ、破門を言い渡されてしまいます。
※当時、伝統的な技法と様式を守りたい保守的な「日本美術協会」(旧派)の帝展と、岡倉天心をリーダーに、新しい表現法を模索する横山大観らが結成した「日本美術院」(新派)の院展が対立していた。
「落選の神様」と呼ばれた時期
初入選を果たした後、1933年の院展にも「学ぶ子等」で入選。
画家として安定期を迎えたかと思われましたが、またも入選から遠のき不遇な時期を迎えるのです。
度重なる落選で、周囲は球子を「落選の神様」と呼びました。自身の弛まぬ努力に反して終わりの見えない不遇の連続。そんな状況の球子に一つの転機が訪れます。
1939年に出品した院展で「緑陰」が入選。
これにより、日本美術院の先輩である横山大観(※1)小林古径(※2)前田青邨(※3)らに認められることになった球子。
※1「朦朧体」と呼ばれる無線描法を確立した日本画家(1868-1958)、代表作に「瀟湘八景」「生々流転」など。
※2 当時、新古典主義と呼ばれた日本画家(1883-1957)、代表作に「清姫」「孔雀」など。
※3「たらし込み技法」と呼ばれる厚みがある色彩が特徴の歴史画家(1885-1977)、代表作に「京名所八題」「洞窟の頼朝」など。
院友(※)に推薦されたこともあり、それ以降は毎回入選するようになったのです。
※院友…秋の院展に3度入選するとその実力を認め「院友」という呼称を与えられる(春の院展は数に含めない)初入選した画家が次に目指す目標とされている。
「ゲテモノ」と呼ばれた画風
とはいえ、当初球子の作品はすんなりと受け入れられたわけではありませんでした。
従来の日本画ではありえなかった構成と奇抜とも言える色使い、その驚くような球子の画風に、周囲は【ゲテモノ】とまで酷評したのです。
ここに、当時周囲の心無い言葉に思い悩む、球子の心情が分かる記述が残っています。
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人が3年でなる院友に、私は10年もかかりました。
その3年後のことですが、院展研究会に大観先生から「雄渾」という作品画題が出されました。その時、かねてから描きたいと思っていたモデルを思い浮かべました。
横浜の上大岡という所に住んでいる行者で、渡辺万歳という人です。金持ちの大農家の当主でしたが、目はランランと輝き、口は大きく、さらに大きなあぐら鼻を持った不動尊そっくりな行者でした。
早速行者を訪ね、モデルになってほしいと告げると、
「よし、そんなに描きたいのなら、寒の入りから21日間、二足四足(鶏と獣肉)を断ち、朝は10時に卵1個、昼夜は菜食。夜中の正二時に水行を続けたら、モデルになってやろう」
と言います。学校で教えながらの行です。終わり頃には足がふらついて困りましたが、とにかくやり遂げて行者を訪ねていきました。すると、私が一言も言わないのに、無言で私を護摩壇の前に連れて行きました。
燃えさかる炎の前で、行者はあぐらをかいて座り、紅蓮の炎に照らし出される行者の顔は、鬼気迫るものでした。
この絵が小林古径先生の目に留まり、二等賞になりました。そして、古径先生のお宅に呼ばれたのです。
まず「今回の絵は良かった。あの勉強の仕方でいいから、一所懸命に勉強をしなさい」
と言われました。そして、
「あんたの絵はゲテモノだって有名だ。本当にゲテモノだ。だけれども私は言っとくけど、ゲテモノやめちゃいけない。ゲテモノでいいんだ。だから人に何て言われても、それをみんな自分の栄養だと思って、腹の中に入れときなさい。自分の主義主張を、曲げないで、ゲテモノをずーっと続けて、20年、30年、40年と経っていくうちに、あんたの絵が変わってくる。変わってきたらしめたもんだ。本物の絵描きになれる、私の言うことはちゃんと守りなさい」
と、そういうふうに言われました。神様が会わせてくださったみたいです。
私は終始、先生の目を食い入るように見つめ、全身を耳にして聞きましたよ。一語、一語、肝にしみ通るようでした。自分が間違いなく、駄目な絵を描いているのだな、と思い知りました。それと共に、このまま描いていきなさいという先生のお言葉に、いただいた二等賞のこともあり、心の片隅にほんの芥子粒ほどの膨らむものを感じました。
※出典:到知出版社「落ちるからこそ、いい作家になれる」——日本を代表する女流画家・片岡球子の言葉
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球子を目にかけていた日本画家 小林古径が授けた助言。
それは、自殺を考えるほど精神的に追い詰められていた球子にとって、長い不遇時代とつきまとう「ゲテモノ呼ばわり」から解放するものでした。
小林古径との出会いに感謝し「美しく描くことが全てではない」と自分を奮い立たせ、自分の信念のままに創作活動を続けるのです。
戦後の1946年、球子は中島清之を介して、日本美術院の先輩である安田靫彦(※)に師事することとなります。
※大正~昭和期の日本画家、能書家( 1884-1978)、 優美な線描と典雅な色彩で古代史への深い造詣に裏打ちされた歴史画を確立。代表作は「黄瀬川陣」が2011年重要文化財に指定された。
生涯を通し、多くの日本画界重鎮に可愛がられた片岡球子。
絵画への一途な想いと素直でみずみずしい感性が、先を行く重鎮画家たちに「なんとか引き上げてやりたい」と思わせたのかもしれません。
女子美術大学の専任講師へ
落選の時代をようやく脱した球子。
1955年、球子は50歳になっていました。
それまで勤めていた小学校教師を退職し、女子美術大学日本画科の専任講師となります。
1965年には教授に昇進。
その翌年1966年は愛知県立芸術大学が開校したことで、日本画科主任教授として迎えられます。
独自の力強い作風が高い評価を受ける
自分の信じる道を歩み続けた球子。
やがて従来の日本画には無かった力強い表現を確立します。
50歳以降に始めた「富士山」シリーズは高い評価を受け、61歳以降は後にライフワークとなる「面構」や「裸婦」シリーズにも取り組み始めます。
数々の賞を受賞し「日本三大女流画家」へ
球子はその後多くの賞を受賞します。
- 1975年 日本芸術院賞・恩賜賞
- 1976年 勲三等瑞宝章
- 1989年 文化勲章
女性画家として文化勲章は、上村松園(※4)小倉遊(※5)に次いで3人目の快挙。
これにより球子は「日本三大女流画家」と称されることとなります。
※4 女性初の文化勲章受章を受賞した近代的な女性画の代表画家(1875-1949)、代表作に「母子」「焔」など。
※6 明るく軽やかな人物画が象徴的な日本画家(1895-2000)、代表作に「裸婦」「O夫人坐像」など。
急性心不全で逝去する103歳まで、精力的に執筆活動を続けた球子。
明治から平成を生き抜いた偉大な女性画家として、その名を残したのです。
片岡球子の代表作
片岡球子の代表作
- 「富士」
- 「面構」
- 「裸婦」
こちらの魅力を皆様にご紹介します。
「富士」シリーズ
球子の作品の代表作となるのが「富士」シリーズ。吉祥のモチーフとして生涯描き続けました。
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桜島、浅間、昭和新山等の活気ある山々や奇岩で名高い妙義山や、神住み給うという高千穂の峯など、活火山、休火山、死火山と追いつめて遂に富士までやって来ました。急に富士からストップの号令がかかって立往生と云うところです。
富士は、雄大無比、厳しく、しかも美しい。全く魅力的です。
あどけない私の描く富士が、人々に勇気をあたえたり、病気がなおるような気持ちになったり、何か良いことに出会いそうな豊かな心に恵まれたり、花の咲く富士山に遊びに行きたくなったり、雪降りしきる富士のがまんを知ったり、富士山の絵で清められたり、できたらなぁ、などと乙女の祈りのような心で沢山描いていくつもりですし、これを実行したいというのが近ごろの私の日常生活です。
※出典:HP ギャラリー萌
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山を敬い、自身の絵を見た人々の心の機微を願う純粋な想い。その反面、富士山の持つ高さや迫力が絵に出ないと格闘する球子。
多い時は週1回のペースで富士山へ写生に通い、その生命力や厳しさを描き取ろうと挑みます。
力強い輪郭で描かれた富士山。その裾野には鮮やかな花や木々がまるで踊るようなタッチで描かれているのが印象的です。
晩年の富士シリーズの中には、金箔があしらわれているものもあり、さらに高い評価を得ています。特に「めでたき富士」は、同じ題名でいくつも描くほど球子自身のお気に入りでした。
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「一生やっぱり富士山に、お前いい絵描くなぁなんて言われないんだろうと思う。それだからやっぱりね、あぁ死ぬまで描きたいと思うんですね。」
※出典:NHKアーカイブス「あの人に会いたい 片岡球子」
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どこか嬉しそうに、そして「いつか描き切ってやるぞ」という表情で語る球子。富士山は球子にとって、終生のパートナーだったのかもしれません。
「面構」シリーズ
「面構」シリーズは武将や浮世絵師など、歴史上の人物を描き出した代表作。
日本画の伝統を踏まえつつも、球子独自の解釈が加えられた画風が評価され、絶大な人気を博します。
従来の日本画では見られない鮮烈な色使いと、思い切った造形感覚が見る者に強い衝撃を与えます。
「裸婦」シリーズ
球子の多くの作品とは異なり、落ち着いた色合いで裸婦を描いた連作「ポーズ」。
日本人女性の丸みを帯びたフォルムと、物憂げな表情、恥じらいを感じさせるポーズが描かれているのが印象的です。
「裸婦」シリーズは1982年の終わりから描かれ続け、球子の新しい境地への貪欲な挑戦が伺える作品となっています。
片岡球子の作品の鑑定は骨董買取ラボへ
片岡球子の逆風にも負けず、自らが追い求める絵を描き続けた生涯、いかがでしたでしょうか?
生前、球子はテレビのインタビューに穏やかな表情でこう答えています。
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「何か発見したいと思うんですね。それは描く方法でも発見を必要とするし、人物の捉え方も、その内容の深さもね、そういうものもみんな見付けていくことですからね。自分流に見付けていきたいと思っているんです。」
※出典:NHKアーカイブス「あの人に会いたい 片岡球子」
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その力強い作風は、彼女の人生そのもののよう。これからも見る者に自分らしく生きる勇気を授けてくれることでしょう。
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