2022.11.24

【作家紹介】④ 北大路魯山人 ~美と料理を愛した男~ 容赦なく真贋を見抜く、不屈の芸術家

1883~1959年。

「稀代の美食家」「孤高の芸術家」など名声を欲しいままにし、

画家・書道家・篆刻家・陶芸家・漆芸家・料理家・美食家…と数えきれないほどの才能と肩書きを持つ男がいました。

男の名は、北大路魯山人。

「魯」とは、愚か・ 鈍いこと。「山人」とは、俗世間からのがれて暮らす者(隠遁者)を意味します。

栄光と賞賛の真っただ中にありながら、自らを「愚かな隠遁者」と名乗った北大路魯山人。

今回は、溢れる才能と満たされぬ家族愛への渇望を抱えて生きた、北大路魯山人の芸術家としての魅力と代表作をご紹介します。

 

生い立ち

1883年(明治16年)

北大路魯山人、本名 北大路 房次郎(きたおおじ ふさじろう)は、京都市愛宕郡上賀茂(※1)北大路町に、上賀茂神社の社家(※2)・北大路清操(きよあや)と、同じく社家の西池家出身である登女(とめ)の次男として誕生しました。

※1…現在の京都市北区

※2…社家(しゃけ)。代々特定神社の奉祀を世襲してきた家(氏族)のこと。身分制度としては明治維新により1871年に廃止されたが、一部の社家は華族となり、地方の神社はその後も旧社家が世襲を続けているケースも多い。

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士族の家柄でしたがその生活はとても貧しく、版籍奉還(※3)2年後、明治4年には今まで保証されてきた俸禄制と世襲制(※4)が廃止、時代は混乱期にありました。

※3…版籍奉還(はんせきほうかん)は、明治維新の政治改革の1つ。全国の藩が所有していた土地(版)と人民(籍)を朝廷に返還した。明治2年6月17日(1869年7月25日)に勅許。

※4…俸禄制と世襲制 俸禄制(ほうろくせい)とは、家臣が領主から蔵米(俸禄米)を給与された制度。 世襲制(せしゅうせい)とは、特定の地位(官位や爵位など)や職業、財産等を子孫が代々承継すること

父・清操は職を求め上京しては京都に戻るという生活をしていましたが、房次郎(魯山人)が生まれる4ヵ月前に妻の不貞を苦にして割腹自殺。房次郎は母の不倫によって生まれた子でした。

世間体を気にしたのか、やがて母・登女は滋賀県滋賀郡坂本村(※5)農家に房次郎を預けたまま失踪。生まれてから5ヶ月後、房次郎は預けられた農家で放置されており、それを見かねた服部という巡査の妻が連れ帰って養子としました。

※5…現在の大津市坂本

生まれて間もないというのに、既に2度も家を渡り、服部房次郎となった房次郎。しかし今度はこの服部巡査が行方不明になり、同年秋に巡査の妻が病死してしまったため、義理の兄夫婦に面倒を見てもらうこととなるのです。

 

   過酷な幼少期

房次郎が3才の春、養姉に連れられて上賀茂神社の東側にある神宮寺山を散歩をしている時に「真っ赤な躑躅(つつじ)の咲き競う光景」を目にします。燃えるような躑躅の激しい色彩の渦に心を奪われた房次郎。「美の究極」を目の当たりにして、自分は美と共に生きると心に決めるのでした。

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しかし、ここでも追い打ちをかけるように、義理の兄に精神異常が出てその後亡くなります。義姉の実家に身を寄せるも、そこで義姉の母から「おまえは、うちとはまったく何も関係ない」と激しい折檻(せっかん)を受ける房次郎。後の傲慢な人格を生むのに十分すぎるくらい、不遇の連続でした。

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そんな房次郎を気の毒に思った近所の人の口利きで、木版師・福田武造の養子となれた房次郎。晴れて福田房次郎となります。

房次郎6才、ようやく辿り着いた「安心できる家庭」でした。

※33才になるまでの約27年間、福田姓を名乗りました。少しほっとしますね。

 

 

   炊事で培った料理の基本と味覚

そうは言っても生まれた時から「いつ捨てられるか分からない恐怖」と筆舌に尽くしがたい絶望を抱えて過ごしてきた房次郎にとって、養子になったからといってすぐに安心できるわけもなく「捨てられないように」炊事を買って出るなど6才なりの工夫を凝らし、気に入られようと必死に努めました。

養母が米を炊く様子をつぶさに眺め、水と火の加減を考え実践する。その米の美味しさに養父である福田武造が

「三等米が一等米の味だ」

「房次郎の物を見る目と舌が並やない」

と驚いたという逸話もあるほど。

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房次郎の強さは「困難な状況でも自分で居場所を作ろうと努力できる」ことではないでしょうか?

不遇な運命や身勝手な大人に翻弄されながらも、ただ怯えるだけでなく「観察し、分析し、実行する」を6才にして身に付けていたのです。

●いつ捨てられるか分からないから、常に周りを観察し

●次にいつ食べさせてもらえるか分からないから、素材が持つわずかな味の輪郭も捉えられるよう味覚が敏感になった

のかもしれません。

わずか6才の子どもが自然とそうしている姿を想像すると、胸が苦しくなりますね。

 

   奉公中に見た「亀の絵」

10才で梅屋尋常小学校(※6)を卒業。

春には京都・烏丸二条の千坂和薬屋(※7)に、住み込みで丁稚奉公へ出された房次郎。ある日、奉公先の使い走りの最中、御池油小路西入ル森ノ木町にある仕出し料理屋「亀政」の行灯看板を見て、そこに描かれた一筆書きの亀の絵と書かれた字に衝撃を受け、絵画に対する興味を持ち始めます。

※6…現・京都市立御所南小学校、新町小学校

※7…現・わやくや千坂漢方薬局

   書道コンクールへで稼ぐ日々

1896年(明治29年)、13才で奉公を辞めた房次郎は、画学校への養父母に画学校の進学を頼み込みますが、家計的な問題もあり経済的に断念。

養父である福田武造の木版や扁額、篆刻の仕事を手伝いながら後に勇躍する分野の基礎を磨いていきます。

一方、一字書の書道コンクールで初応募にして何万点の作品から天の位1枚、地の位1枚、佳作1枚と次々に受賞。当時14~15才だった房次郎は、書道で稼いだ受賞金を使い絵筆を買っては、我流で絵を描き始め西洋看板描きとしても活躍しました。

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何も分からぬまま虐げられ、たらい回しに遭い、「今日は明日は生きていられるのだろうか」という生命の不安から解放された房次郎。生き生きと芸術の世界にのめり込んでいく姿が浮かぶようで嬉しいですね。

 

   美術展覧会受賞と結婚

房次郎が20才の時「房次郎の従兄だ」と名乗る人物が現れます。

縫箔屋の主人をしているというその従兄から「実母は東京にいる。姓は北大路だ」と所在と姓を知らされ東京まで会いに行きますが、やっと再会した母は(世間体を気にしてか)冷たく、房次郎を受け入れてくれませんでした。

2度も我が子を捨てるような、実母の無情さを味わったであろう房次郎ですが、そのまま東京に残り書家になることを志します。

1904年(明治37年)、日本美術協会主催の美術展覧会に出品した『千字文』(※8)褒状一等二席(※9)を受賞!いよいよその頭角を現します。21歳での受賞は前代未聞の快挙でした。(※10)

辛かった幼少期が霞むほどの実績を自分の力でつかみ取った房次郎。自らの不幸を跳ねのける強さを感じますね。

※8…子どもに漢字を教える、書の手本として用いられた漢文の長詩。1000個の異なる文字が使われており、一文字も重複していないのが特徴。

※9…褒状とは賞状のこと。一等二席は賞のランクのようなもの。数字が小さいほどランクが高い。

※10…この展覧会で房次郎は福田海砂(かいさ)と号しています。(この号は翌年までの2年間のみ使用)

その後、親戚のいた京橋に住み込みで版下書きの仕事を始めます。

そしてこの頃、なんと実母登女(とめ)との関係が良くなっていったそうです。良かった!

1905年(明治38年)、町書家の岡本可亭(※11)の内弟子となり3年間住み込みながら書の才能を伸ばす房次郎。

※11…漫画家岡本一平の父、洋画家岡本太郎の祖父にあたる人物

岡本可亭より「福田可逸(かいつ)」の号を授かり、次第に師匠である岡本可亭よりも仕事の受注が増えていきます。

やがて、帝国生命保険会社(※12)文書(※13)として出向するようになり、1907年(明治40年)、岡本可亭の門から独立して「福田鴨亭(おうてい)」を名乗ります。

※12…今の朝日生命保険相互会社

※13…工部省内の文書事務を取り扱った内局。省内の往復文案の記録・編集、翻訳などの事務を担う。

翌年1908年2月17日、仕出し料理店の娘 安見タミと結婚。その年の夏に長男が誕生。ついに自分の家族を手に入れた房次郎。このときまだ25才。仕事はますます繁盛し幸せを味わいますが、稼いだ収入を書道具や骨董品、外食に注ぎ込むようになります。また合間には書店に出掛けて畫帖や拓本などの典籍を求め、夜は読書と研究に没頭。

そして、せっかく手に入れた幸せを自らの手であっさりと捨ててしまいます。美術家として金が必要だった房次郎は、老舗書店・松山堂の藤井利八の娘 せきと見合いし、タミを捨て再婚。

生涯で5回の結婚を繰り返し、破綻させてしまう房次郎。

●1908(明治41) 安見タミと結婚

1914(大正3)    タミと協議離婚

1916(大正5)    藤井せきと結婚

1927(昭和2)   せきと協議離婚し、中島きよと結婚

1938(昭和13) きよが元星岡窯の職人と駆け落ちして離婚、熊田ムメと結婚

1939(昭和14)  ムメと協議離婚

1940(昭和15)  中道那嘉能(芸者・梅香)と結婚

1942(昭和17)  中道那嘉能と離婚

全てではないのでしょうが、野心や薄情さを併せ持ち、たくさんの女性の間を渡り歩いていたという房次郎。

愛に飢えていたとはいえ、非常に残念ですね。

 

   朝鮮から帰国、食客へ

1910年(明治43年)12月、実母と一緒に朝鮮に旅立ちます。

母を京城(※12)の兄へ送り届けた後、朝鮮内を旅すること3ヵ月、朝鮮総督府京龍印刷局※13)にて書記として勤め3年ほど過ごしました。

※12…現在のソウル

※13…1910年の韓国併合によって大日本帝国領となった朝鮮を統治するため、同年8月29日に設置された暫定的な官庁の機関の1つ。

1911年(明治44年)1912年(明治45年)夏に帰国した房次郎。

京橋南鞘町(※14)で書道教室を開きながら、篆刻や刻字看板の制作も請け負うようになります。房次郎の教え方は論理的で分かりやすく評判は上々。半年後、長浜の資産家 河路豊吉に食客として招かれ、書や篆刻の制作に打ち込む環境を提供されました。

※14…現在の中央区京橋一・二丁目

ここで房次郎は「福田大観(たいかん)」の号で、小蘭亭(※15)の天井画や襖絵、篆刻など多くの傑作を残しました。

そして、幼少時より敬愛する竹内栖鳳がしばしば訪れている、柴田源七家の食客になることが叶います。柴田源七は河路家の軒先に掲げられていた房次郎の彫った刻字看板「淡海老舗」を見て「なみなみならぬ力の持ち主だ」と感心した一人でした。
房次郎は柴田家を訪れた竹内栖鳳に「款印を彫らせて欲しい」と願い出るます。その款印を気に入った栖鳳が門下の土田麦僊らに房次郎を紹介したことがきっかけとなり、日本画壇の巨匠たちとの交流が始まり、その名を高めることになりました。

※15…滋賀県長浜市の歴史的建造物である北国街道 安藤家(ほっこくかいどう あんどうけ)の庭園にある離れ書院。

 

   美食と陶芸への関心を高める

1915年(大正4年)には、金沢の実業家 細野燕台のもとに一時的に住み、美食や陶芸について造詣を深めました。

房次郎の才能を見抜いた細野燕台は、茶人であり漢学者、書や絵にも優れた文人だったのです。

細野家の食客として滞在し、燕台に伴って訪れた山代温泉。山代には燕台の茶人仲間や、趣味を同じくする旅館の旦那衆がいて、それぞれの旅館の看板を房次郎に彫らせたいと引き合わせてくれたのでした。

 

   兄が他界、北大路性を継ぐ

1916年(大正5年)、実母から便りが届きます。それには「深川の鉄工所で職工として務めていた清晃(長男)が死んだので、二男である房次郎に北大路の家督を相続して欲しい」とありました。
言われるまま房次郎は上京。今さら感が否めませんが、兄・清晃に子供がいなかったことから実母の登女は、北大路家を残し、2度も捨てるように扱った房次郎に対して罪滅ぼしの気持ちがあったのかもしれません。

大正2年10月2日、房次郎は北大路家の家督を相続。「北大路」の姓に戻ります。33年守り育ててくれた福田武造の息子を辞めるのでした。

 

 

   食客として額を手掛ける

その後も書家・篆刻家として注目されていた房次郎は、京都や長浜、鯖江など次々と豪商に招かれ、食客としていくつも額を手がけて高く評価されます。食器と美食に対する見識を磨き、1917年(大正6年)、便利堂の中村竹四郎と知り合い交友を深めました。

 

会員制食堂『美食倶楽部』の発足

その後、古美術店の大雅堂を中村竹四郎と共同経営することになった房次郎。この頃から「魯山人」を名乗り始めます。

北大路魯山人の始まりですね!

大雅堂では、古美術品の陶器に高級食材を使った料理を常連客に出すようになり、1921年(大正10年)、ついにあの名高い会員制食堂「美食倶楽部」を発足します

使用する食器を制作し、その器を彩る料理をも魯山人みずから厨房に立ち腕を振るいました。

1925年(大正14年)3月20日には東京・永田町の「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」を中村竹四郎とともに借り、中村が社長に、魯山人が顧問となり、会員制高級料亭を始めます。

 

   魯山人窯芸研究所「星岡窯」を設立

1927年(昭和2年)には、宮永東山窯から荒川豊蔵を鎌倉山崎に招き、魯山人窯芸研究所・星岡窯を設立。本格的に作陶活動を開始めます。

1928年(昭和3年)には日本橋三越にて星岡窯魯山人陶磁器展を開催。1930年(昭和5年)秦秀雄と出会い、意気投合。秦秀雄を星岡茶寮の支配人にします。しかし魯山人の傲慢・横暴・浪費から、1936年(昭和11年)、星岡茶寮の経営者・中村竹四郎からの内容証明郵便で解雇通知を渡されてしまいました。

 

   困窮しながら「火土火土美房」開店

戦後の魯山人は経済的に困窮し、ふたたび不遇な時代を迎えますが1946年(昭和21年)には銀座に自作の直売店「火土火土美房(かどかどびぼう)」を開店。在日欧米人からも好評を博します。

1951年(昭和26年)に結婚したイサム・ノグチと山口淑子の夫妻を星岡窯に一時的に住まわせませ、1954年(昭和29年)にはロックフェラー財団の招聘で欧米各地で展覧会と講演会を開催。その際にパブロ・ピカソ、マルク・シャガールも訪問。

口を開けば悪口ばかり言っている魯山人は芸術家仲間であるはずのピカソにも容赦がありません。

ピカソのアトリエに招かれ、何枚もデッサンをするピカソを見て

「ピカソは何回も同じことを繰り返すうちに頭が狂ってあのような異常な作品が生まれるのだろう」

と思ったと言い、鉄製の彫刻作品を見せられれば

「全然大したものだとは思わなかった、こんなもんをいかにも傑作のように話をするのはピカソ一流のハッタリだと警戒しながら眺めた」

と切り捨てました。

「ヨーロッパではピカソのようにバシンと出るとみんな引っかかるんだね。彼は絵が下手で美がない、色が汚い、線が下手クソだ。思想の文字を書くところを絵で描いているのだろうか」

とも。敵が多いのも頷けます。

美食家としても有名だった魯山人は、世界が誇るフランス料理に対しても手厳しく、訪れた鴨料理店トゥール・ダルジャンでは

「ソースが合わない」

とバッサリ。持参したわさび醤油で食べたという逸話さえ。
しかし無礼なほど裏表のない性格は、吉田茂などから愛されました。

「さすが房次郎…」とこぼしたくなるような逞しさを感じますね。

 

   人間国宝を辞退、そして逝去

1955年 織部焼の重要無形文化財(人間国宝)に指定されますが、魯山人は

「芸術家は位階勲等とは無縁であるべき」

と2度も認定を辞退します。

昭和34年11月4日、体調を崩し、横浜市立医科大学(十全病院)に入院。
実家に戻っていた(故)長男櫻一の妻 福田房子も隣りの病室を借りて、魯山人の看病をしながら見舞に訪れる人々の世話をしました。
12月21日朝、6時15分、行年76才。奇しくも父親・清操と同じ命日でした。
まるで、あどけない子どものような死顔だったそう。

この時のことを伝える記述が残っています。

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二十二日、病院の慰安室から出棺。
山崎の自宅で通夜。
赴報に駆けつけた八勝館支配人の松田伴吉は、
このときのご馳走は、たしか鰤と大根の煮物だった。それがまるで魯山人が生きているようだった。素材の切り方、味付け、盛り付け、運び方まで、魯山人の教え通りでした。
私は通夜の受付をしていましたが、庭をふと見ると、先生から追い出された人達が掃除をしている。魯山人は憎まれながらも、人の心をとらえていたのです

横浜市西区久保山の火葬場で茶毘にふされ、山崎の自邸に戻った魯山人は白骨と化し
二十四日、鶴岡八幡宮で神式により葬送された。
この日は風が強い日だったと父はいう。
小山冨士夫、杉浦(八勝館)、広田(壺中居)、遊部が中心となって万事をすすめ、
魯山人ファンや知人など三百余人が榊を捧げて冥福を祈った。
神式ではあったが、遺骨は洛北西賀茂の浄土宗・西方寺墓所に埋葬された。
身延山の管主がつけた戒名は、『妙法祥院高徳魯山居士』。

亡くなる二十年前の昭和十四年の暮れ、魯山人は娘の和子と生れ故郷の上賀茂にいた。
二人で旅行するのは前年の山代温泉行以来である。
この時は、日本海特有の雷が鳴り響き、父である魯山人と布団を並べて寝たが、
大きな雷の音が怖かったという。  

京都駅から円タクで西方寺に向かった。

上賀茂から西方に位置する西方寺の墓地は通称、小谷の墓地(現在、市営)という。
紅葉は終わっていたが、寺の前を通り、墓地に入ってすぐ、池の手前を右に曲がる。
クランクな坂道を和子の手を引いて登った一番奥の小高いところに北大路家の古い小さい先祖の墓がある。
祖父・可清、父・清操など六基の墓碑である。  
魯山人はここに和子の筆跡で立派な墓を建てることを思いついた。
『北大路家代々之霊墓』…脇には…昭和十四年十二月建之 北大路和子書
和子はこの揮毫を母屋の春風万里荘で何度も練習した。
こうして十二才の和子が書いた揮亳に満足した魯山人は墓石に深く彫らせた。
「出来ばえは中ぐらいでした」と和子は、私の問いに西方寺の墓石を採点した。

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引用元:黒田草臣著『美と食の天才 魯山人 魯山人のすべて』『やきものは男の本懐である。』

 

魯山人の人柄

北大路魯山人を語るうえで外せないのは「傲慢・毒舌・偏屈・不遜・嫌われ者」などのイメージ。

確かに、自分に尽くしてくれた人を切り捨てたり裏切るような、制御不能の傍若無人なふるまいも事実でしょう。しかしそれだけだったのでしょうか?

一家で魯山人手掛ける星岡窯の一角に住み、ご自身も魯山人と実際に話したことがある黒田草臣さんがあるインタビューにこう答えています。

※黒田さんは、美食倶楽部があった場所で魯山人の名作を展示する『古美術店・魯卿あん』を営んでいます。

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魯山人は私が高校2年生の暮れに亡くなりましたが、私にとっては本当に優しい人でしたね。特に力の弱い子供や動植物などに対し、優しかった印象があります。

私が子供だったある時、魯山人が大切にしていた山桜の木に登って遊んでいたところ、魯山人の履く下駄の音がカッカッカッと近づいてきたので「ああ、これは完全に怒られるな……」と覚悟しました。

ところが魯山人は下から

「おいおいおい」

と声をかけるや、こう言ったのです。

「桜は滑ったり折れたりするから、足元を確かめながら気をつけろよ」。

またある時、路地に咲いた白い山吹を、竹竿で払い落として遊んでいました。すると魯山人がまた駆け寄ってきて

「おいおいおい」

と声をかけました。この時も完全に怒鳴られるとビクビクしましたが、魯山人は

「花だって命があるんだぞ。かわいそうだから、そういうことをしちゃいけない」

と、怒るというより諭すように言われました。

世間からは悪く言われることも多かった人ですが、長く付き合う中で全くいさかいが起きなかった人もいくらでもいるのです。

それと魯山人おじさんといえば、いつもスケッチブックと鉛筆を持って、自然や生き物をスケッチしていた姿が印象に残っています。

私が昨日も同じものを描いていたよね?と話しかけると、

「おまえ、同じだと思っているのか。すすきも、すすきに来る虫も、毎日違うんだぞ」

と教えられたものです。

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引用元:東京アートアンティーク「稀代の芸術家を育んだ街。魯卿あん店主に聞く、京橋時代の魯山人」https://www.tokyoartantiques.com/city-nurtured-rare-artist.-interviewing-owner-rokeian-about-rosanjin-time-kyobashi/

 

家族の愛を求めながら、家族と良好な関係を築くことには不器用だった魯山人。

溺愛した娘も、魯山人の骨董を許可なく持ち出し売ったことから勘当。晩年、魯山人の病床に呼ぶことすら許さなかったそう。

その一方で、ラジオから流れる美空ひばりの歌や貧しい新聞少年の話、ホームドラマの微笑ましい場面を聴いては、肩を震わせ嗚咽したという話も残っています。

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常に傲慢で、身長180㎝を超える大男の魯山人が肩を震わせて泣くさまは、さぞ周囲の人々を驚かせたことでしょう。

不遇・孤独・天才・傲慢…だけど心根に持っている純粋さや自然への敬愛が混ざり、強烈に人を惹きつける魅力になっているのかもしれませんね。

 

「染付楓葉平向五人」

全長:18㎝

幅:16㎝

高さ:3.5㎝

楓の葉がふわりと舞い落ちたような、穏やかでかわいらしい印象の器。

楓の葉の形の器に呉須で葉脈を描き、いきいきとした葉の生命力も感じる作品。裏は三ツ足。

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➡染付楓葉平向五人を「検索してみる」

 

「織部釉長板鉢」

大きな板状の器。

全長:49㎝

幅:24.5㎝

高さ:9㎝

 

櫛目の技法を用いた造形のおもしろさ、釉薬の深い緑色や波模様の濃淡が見どころ。

それまでは「滑らかな表面に仕上げるのが一般的」とされていましたが、魯山人はあえて表面を削って細かな凹凸を作ることで、釉薬の繊細な表情が楽しめる技法を作り出しました。

実はこの板皿、「まな板」をヒントに作られたそう。粘りが強く加工しやすい信楽土を使い、織部焼には美濃の土という常識さえも変えてしまったのです。

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裏側の高台には、切り込みを施し遊び心も感じます。見えない部分まで見どころに変えてしまうあたりに魯山人のセンスが光っている一品です。

➡織部釉長板鉢を「検索してみる」

 

「雲錦鉢」

昭和26年(魯山人58才)頃に制作。

口径:42㎝

高さ:21㎝

琳派 尾形乾山によって創案されたと言われる模様「雲錦」。

満開の桜と紅葉を合わせて描き、見る者の目を楽しませてくれる人気の絵柄です。

口径が42cmと大きな鉢に、魯山人は内側の桜を多くしながらも表裏に渡って大胆に描かれています。

絵付けする器には、加工しやすく発色が美しくなる信楽土を好んだとか。

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➡雲錦鉢を「検索してみる」

 

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「高みを行く人間は、大衆には決して理解されない」

と豪語し、

「大衆に支持されるものは低級の美に過ぎない、自らの信じる美こそが最高だ!」

と譲らなかった魯山人。

 

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